2007年 08月 18日
ビートニク
彼らや彼らの精神に共鳴した若者たちは、アメリカ主義や「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」な価値、体制や物質文化に異を唱え、散文を唄い、放浪し、それぞれに生のリアリティを追い求めました。
エピソードや詳しい説明は検索ノートにお任せして、ここで特筆したいのは、彼らそれぞれがあくまでも「個人」であったことです。
上の三人以外にも、各ジャンルでたくさんの個性的なアーティストがいましたが、それぞれが盟友ではあっても決して必要以上にツルむことはありませんでした。むしろ「集団」になることを拒んでいました。
体制に対して反体制になることで、そこでまたひとつの「集団」が生成されますね。とくにケルアックは、ビートの影響下に生まれた後の「ヒッピー文化」をまったく歓迎していませんでした。
ヒッピー文化は現在でもレイブカルチャーとして、その集団性が受け継がれていますね。
「体制集団VS反体制集団」、「既成概念VS反社会」ではなく、ビートニクは終始「集団性VS個人」のもとに文化と精神性を開放していったのです。
なぜ個人かというと、どのようなものであれ、集団には「生のリアリティ」はないからです。リアリティは個人にしかありませんね。集団にあるのは、群集心理や集団催眠、流布や体裁や共有・共同体幻想です。私の感じ方がアナタの感じ方にはなりませんし、あなたが喜んでもわたしは嬉しくない、誰かが痛くても誰かは痛くないのは当たり前ですね。また、大自然も、現代人がどう理屈を付けても、乱痴奇集団を歓迎していないでしょう。
個人がどう感じ、どう考え、どう行動するか。そういう個人たちが各々ひとりひとり増えていくことで、退屈で閉鎖的で、豊かなのに行き詰った社会や通念が塗り替えられていきますね。集団は集団であるがゆえ、個人を埋没させるシステムが内在機能していますね。
いろいろな角度で、いろいろな解釈がありますが、ビートニクという行動と価値が社会に叩きつけたのは「個人という存在」であり、すべての集団にある盲目性を拒絶することだったように思われます。きっと、受け入れ認め合うべきは、互いの「個人」ですね。
読書の秋ですね。多くはありませんが、そのような本もいくつか取り揃えております。
ビート・ジェネレーション/ビートニク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
http://www.eiga-kawaraban.com/00/00120501.html
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/beatnik.htm