<   2009年 10月 ( 29 )   > この月の画像一覧

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直接の影響はないかもしれませんが、一般的に「AKIRA」で有名な大友克洋さんの漫画の画風、コマ取り、構図や構成、切り取り方は、ノーマン・ロックウェルのイラストに似ているように見えるのです。

(実際、当時ボクが熱心に読んでいたのは初期短編集「ショート・ピース」から前作「童夢」までで、以降興味がなくて「AKIRA」は読んでも見てもいませんが)

大友がノーマンのイラストに影響を受けたかどうかは知りませんが、似ていることにもし共通していることがあるなら、映画的/場面的/動的細密性ということかもしれません。
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お尻に注射、インフルエンザにお気をつけください。
「足がずぼんと入って、ずぼんと履けるから、ズボン」

英語ではパンツ。

ズボンは英語ではないのでその語源を調べてみると、<フランス語のJUPON/ジュポン>から来ているそうで、女性がスカートの内側に履くペチコートのことなんだそうです。

この<ジュポン>の語源は、<アラビア語のDJUBBA/デュバ?>から来ているそうで、男性が身にまとうゆったりとした衣服のことなんだそうです。

「足がずぼんと入って、ずぼんと履けるから、ズボン」という説もあるようですが、それは後の洒落だそうです。

この<デュバ?>が身にまとうものでこの発音なら、デュバ=デュバン=ジュバン=襦袢、という連想で、襦袢と何らかの関係があるのではなかろうか、と調べてみたところ、なんと、襦袢の語源は<ポルトガル語のJIBAO/ジバン>から来ているんだそうで、今のシャツのようなもので袖やボタンの付いた下着の意味なんだそうです。

ポルトガルといえば織田信長とかの戦国時代で、舶来好きな信長あたりも喜んで着ていたそうです。今に始まったわけではなくて、日本人は大昔から舶来ものが好きだったようですね。
そのジバン=襦袢が日本風/着物風にに改良されて長襦袢になって、もともと下着ですから、芸者さんや吉原あたりのユニホームと化していったということです。

<着物>という文化も日本オリジナルというわけではなく、いっぺんに出来上がったものではなくて、古来固有のものだけではなくて、アジア圏どころか西洋文化も融合されて完成し出来上がっているものなのですね。

ちなみに雨ガッパの<合羽>も、<CAPA/カパ>から来たポ舶来語日本語化だそうです。

ポルトガルは地中海を挟んでアラビア圏の隣ですし、隣国スペインはアラビア国に占領されアラブ文化が混合していますから、この<アラビア語のデュバ><ポルトガル語のジバン>もそんなに無関係なこともないんじゃなかろうか、などと考えてみたりします。
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by greenwich-village | 2009-10-31 17:00 | その他 | Comments(0)

職人と芸術

午後3時です、お茶でもいかがですか。

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政治の、野党と与党の間に“ゆ党”と揶揄されるものがあるそうです。
“や党”と“よ党”、“や”と“よ”の間で“ゆ”と言うことで、存在意義や本質的価値が希薄な状態を示唆しているようです。

工芸品や日常生活用品。こういうものには、それぞれに応じて質の違いがあります。
たとえば質のある家具というのは何ゆえ質があるのかと言えば、つまり高値ということにつきるわけですが、高値と言うのはそれらの素材そのものや造作の施しの巧みさ、ということです。
そういうものは、簡易廉価の何倍何十倍もするわけですが、それだからこそ時間に耐えうる本質を備えている。むしろ、そういうものはそういうもの自身の方から、ちょうど年輪のように時間を吸収してしまう。
時間が経てば経つほど、そういうものの本質に磨きがかかり、味わいの深みを増す。
カラー・ボックスを大切に50年使い、50年耐えうるかどうか、愛着があるかどうか、それを直してまで使いたがる人がいるかどうか知りませんが、あくまで簡易のものですからそんな長い時間を耐えうるような質でないのは当然のことです。

“質”のあるものは、素材吟味から造作までそれが新品として作られたときから、高い技術を持った職人さんたちによって作られ、直され、何世代も使われるようなものです。
それぞれに見合う耐久性のある高質な素材ですからもともと高値は勿論ですが、だからこそ壊れることも少ない。匠を凝らしていますから壊れることは少ないのは勿論ですが、飽きられたり捨てられたりするような陳腐なものはない。
愛情を持って大切に使う。それでも壊れたり都合が悪くなったりしますから、そういう時は直してもらって使う。直しが利くものだからこそ“質”があるものです。
たとえば家具職人がいて、建具屋さんがいて、塗り職人さんがいる。ものはそういうところに“質”という価値があって、素晴らしいもの・大切なものとして何世代も受け継がれてきた。

「お、これだけはずいぶんりっぱなもの持ってるじゃねぇか」、長屋住まいの八っさんも晴れ着・一張羅は持っていて、熊さんのカミさんも嫁入り道具で小さくても桐の小引き出しなりケヤキのちゃぶ台を使っていた。塗りの衣こうなり履物なり鼈甲のかんざしなり根付なり。大棚や侍なら尚のことで、また時代が来れば、西洋ものでもテーブルなりイスなり本箱なり、職人の質があるものがあった。
職人が作る“質”のあるものがあって、それを直す職人がいてまた使い、使い込まれても尚使い込まれてこそ“質”が増し愛着も深まった。
社会の構造から言っても、こういうサイクルでちゃんと経済が回っていましたし、当然技術は高まっていった。職人さんは高度な技術をさらに高めていく。高まった技術でさらに“質”のあるものをこしらえる。それはそれなりに高値で、高値だからこそ直しなおし大切に使う。

いつの頃からか、このサイクルが経済優先という名目で単なる消費社会になってしまった。
壊れて当然の廉価な簡易品を消費することで経済が回る、という仕組みだけになってしまった。“質”があるゆえの高値は必要とされない。買っては捨て、捨てては買う。おばあちゃんからお母さんへ、おかあさんから自分へ受け継がれる着物履物宝飾品ではなくて、「ファッションは1シーズンごと、サイクルが早いのよ」というのが当たり前のことになった。「20万円のものを30年使われるよりも毎年3万づつ使ってもらったほうが経済効果が高い」ということで、それが消費経済・価値の基本になった。
ジーパンは990円になり、テーブルはベニプレス板になり、中国の工場で大量生産され、廉価消費が継続されるように、そういうゲームセンターのUFOキャッチーのような裕福な簡易生活が定着した。

質のある職人さんは必要ではなくなり、直すこともないので直しの職人さんもいらなくなる。当然質は下がり技術も受け継がれなくなり、そういう部分の経済は回らなくなる。
その類のものを大量消費し大量廃棄することだけによっての経済と社会と、その価値観に養われた人生観になっていく。質を作る者も楽しむ者もいなくなる。
質のあるものがあっても「お金にしたらいくらになるのか」といった何でも鑑定団になる。

熟練の棟梁を頭に大工さんたちが作る家は、もちろんお金も時間もかかりますから庶民は家など建てられなかった。出来上がった家は素材も作りも、大火でもなければそう簡単に壊れない。
今は、道具も材料も組み立てもユニットになっていますし、経済消費システムでローンを組めますから、すぐに出来上がる。そのわりには価値償却年数はあっという間で無価値になり、その前にいろいろなところにガタがきてしまう。
住宅とカラー・ボックスの違いは3000万円か1000円か、ということ。

家具然り、衣類然り、車然り、消費だけを念頭に置いた経済発展によって、ある期間は確かに、私たち庶民はその恩恵を簡易に享受できましたが、結果、本質的な経済は回らなくなり高度な技術もなくなってしまった。今では、消費の簡易的な経済と質、その直しの利かないゴミの山にあえいでいる。

蚕を養い、機織をして、染める者がいて、裁縫をして、販売され、高いものもあれば安いものもあって、衣類が大切にされた。
絵師がいて、彫師がいて、刷師がいて、版元がいて、浮世絵が楽しまれ、破れた襖のボロ隠しに張られた。
刃物や道具を作るものがいて、それを使い大木を切り出し、加工し、組んで、瓦を焼くものがいて、それを葺いて、窓や襖や木戸を建具し、土壁漆喰左官屋さんがいて、畳を打って、そうやって家が建てられた。
技があり、粋があり、美があり、感性があり、尊重があり、連携があり、そういう職人さんたちの技に代価を払い、回り、それではじめて経済もあった。
経済を優先し単なる消費を促すことで、素晴らしい質も技も美も連携も、有機的な関係は失われてしまいました。

高い技術による“質”は芸術になり、文化になります。
それとは真逆に位置するところにも“芸術”はあって、その質はやはり現代の文化の一端を担っています。

政治の、野党と与党の間に“ゆ党”と揶揄されるものがあるそうです。
“や党”と“よ党”、“や”と“よ”の間で“ゆ”と言うことで、存在意義や本質的価値が希薄な状態を示唆しているようです。

職人と芸術の間の、存在意義や本質的価値が希薄な“ゆ党”感。
政治や政党を揶揄する以上に、われわれ現代日本人の総体的生活観を表しているようにも思えます。
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by greenwich-village | 2009-10-31 14:51 | その他 | Comments(0)
“グリニッチ・ヴィレッジ”というのはニューヨーク・マンハッタンにある一角の町の名前です。
この界隈にはニューヨーク市立大学があって、かつて50~60年代には多くの若者や様々なアーティストたちが集い、革新的で好奇心と創造性が溢れる最も文化度が高い場所の一つでした。
この“グリニッチ”はイギリスの地名から取られていて、一般的にグリニッチ天文台で有名です。
これをもとに、今の私たちが暮らす世界共通の時間の基準で、グリニッチ標準時間になっていますね。グリニッチ・スタンダード、まさにこれこそワールド・スタンダードです。

何がしかの仕事・商売をやるのなら、会社であれ営業職であれアーティストであれ飲食であれ物販であれ、また人間関係や恋愛でも、<既視感・既聴感・既存、既にあるようなもの>のほうが成功する可能性が高いでしょう。
既に見たことがある、聴いたことがある、触れたことがある、知っている、そういうものにプラス、ある種の憧れ・ステイタスを加味して雰囲気をもたらす。本質である必要はありません。
雑誌やTVやネットで、見たことがある・知っているものや概念の雰囲気を、現物としてそれがない場所へ持ってくればいいのです。

よく知っていて媒体によって提示された何がしかのイメージの憧れもあるが、現物・現実としてそれになかなか触れる機会がなかった、というようなものが成功する可能性が高いのです。新しいことを考えることも創出する必要もないのです。既に知られているものだからこそ、安心して穴埋めとして重宝されるのです。

つまりTV番組や雑誌記事のスナップ写真の中にいる、そこに写っているものや人のように自分もいる、というのが、ヒットに繋がるのです。
それをはみ出してしまうと、どのような職種であれ、大いなるチャレンジではあってもあまり芳しくない状況になるのはほぼ間違いないと思います。
決して新しい必要はない、けれどスタンダードでもない、憧れの漠然としたイメージがある既視感、本質の新しさを求めない既成概念の価値観。

翻って、“スタンダード”というのは標準ということですが、たとえば京都という街が持っているものがその最たる一つだと言えるでしょう。
沢山の建築物や庭、山河は昔から何も変らず、古くからある街並、景観。
四季がはっきりとある日本で、その四季を通して通年ですべてが素晴らしい美しい“絵”になってしまうスタンダードな街。
もちろん幕末開国から多く輸入されている“西洋風”“異国風”ではなく、日本人にとって日本という無理のない風情・佇まい。
こういう、まったく太いスタンダードの強さ・良さの前では、何か新しいものであれ既視感のものであれ多くのものが単なる憧れの漠然としたイメージに終始してしまいます。

たとえば京都の街並みが、日本人の生活感のスタンダード。上澄みの概念・思考や趣向・コンプレックスではない無理のないものがスタンダード。文化や風土に立脚しているからこそ揺るぎないスタンダード。
西洋文化に対する憧れは、多くの場合、それらのフォルムに対するコンプレックスであって、何ゆえそのフォルムかという根幹土台の理解ではないのが現実ですが、すべての職業のあり方に関しては、それだからこそ受け入れられるというのも事実です。

決してスタンダードではないけれど、憧れの加味された既視感が溢れる代物。新しくても憧れだけでも成立しない、既視感・既存・既成という反復拡散の非個人的/媒体的生活。規模の大小かかわらず、各方面で、そこを踏まえれば8割がたはヒットする可能性があるでしょう。
スタンダードになれるわけもなく、既存にない新しいチャレンジをするわけでもなく、媒体反復を通した憧れを無自覚に拡散させたもの、つまり、それぞれのジャンルで実によく見かけるもの、それが不景気だとは言っても平和で豊かなこの国で暮らしていくコンセンサスになっているようです。

自覚のないサンプリングものを無意識のままにサンプリングする。既視感であれば流行り、流行るのは既視感であるから。
昨今の経済学者や評論家が口々にハウツー的な「いままでの常識にとらわれず既成概念を打ち破れ!」といいますが、その多くはそういう言葉自体がお互いのサンプリング/時代のコンセンサスであって、既視感の範疇内での話です。
一見新しそうに見えて、その実まったく新しくない、媒体を通してよく見かけるようなあり方こそ、ある意味では正解です。
能動的な発見や提案、好奇心・探究心や創造性、未視感・未聴感・未存などは、無用の長物。




京都というスタンダード。
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by greenwich-village | 2009-10-30 23:39 | その他 | Comments(0)
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ノーマン・ロックウェル/イラストレーション
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マーク・トゥエイン/トム・ソーヤー

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ハーパース・ビザール/シークレット・ライフ・オブ/バーバンク・サウンド
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<ドリフター>    

もう一度言うけど 僕の心の中にあるフィーリングは 
今に始まったものじゃなくて 以前から感じていたものなんだ
まるで僕の心の中に 餓えを訴える声があるように 
もっと何かがあるんじゃないかと 叫んでいるんだ

なぜってそこには 僕が行ったことのない場所もあるし 
乗ってみたい夕焼けもあるし
どうしても放浪癖が出てしまう 僕の中には放浪者がいる

努力はしてみたけど 僕は9時から5時の犠牲者にはなれない 
そんなことはさせないでおくれよ
拒むことはないんだよ 
生き生きするって言うのはイイ気分がする 自由だって感じられる

なぜってそこには 僕が行ったことのない場所もあるし 
乗ってみたい夕焼けもあるし
どうしても放浪癖が出てしまう 僕の中には放浪者がいる



「ザ・ドリフター」   ロジャー・ニコルス&スモール・サークル・オブ・フレンズ


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by greenwich-village | 2009-10-29 14:59 | その他 | Comments(0)
「商品価値のつく個人語法、かつ同時代性を有する未聴感は何か?」

-イーゴリ・ストラヴィンスキー(音楽家)
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by greenwich-village | 2009-10-27 14:49 | その他 | Comments(0)

注文の多くない料理店

ボクはただここに座って  回転盤がグルグル回っているのを見ているだけさ
回っているのを見てる  そうしてるだけでボクには充分に楽しいんだよ
メリーゴーランドに乗って行ったり来たり  グルグル回っているのはもう飽きたんだ
ボクは知らない  あとはもうキミの好きなように勝手にやったらいいよ
                                                                                                          
-ウォッチング・ザ・ホイールズ (ダブル・ファンタジー収録)/ジョン・レノン


台風20号と秋雨前線、退屈な台風でつまらない大雨が降っていますね。


イエロー・ビートルズ/イエロー・BBキング      グリニッチ・ヴィレッジ


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by greenwich-village | 2009-10-26 18:52 | ビデオ/動画 | Comments(0)

愚かなる我が心

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先日、機会があるとたびたび赴いているある町の、ある私設ミュージアムに行ってきたのですが、その町の空気感から町並みの佇まい、そのミュージアムもですが、いつもきっちりとしていて訪れるたび感心して学ぶことが沢山あるのです。きっちりしているからこそユルさがあって無理がない。
ミュージアムに展示されている品々は100年からのこれぞ真のアンティーク品や稀少な一点ものでどれも素晴らしいのは勿論なのですが、何よりきっちりした印象を感じたのは展示用のケースやスペースの仕切りガラスです。これがまるでガラスがないように見えるほどの非常に精度の高いもので、そういうところのきっちりとした配慮が展示品をさらに優れたものにして、見るものを楽しませたいというミュージアム側の誠意が凛々と伝わってくるのでした。さらに、独特な構造の柱を有した変形ドーム型の建築であるのもゆったりとしたスペースで味わってほしいという気持ちが表れていて、いちいち感心してばかりでした。
そういう空気は町全体にも流れていて、ひとつひとつきっちりという確かさに学ぶところが多く、それが気持ちよく何度も訪れてしまうのです。


ボクが暮らす地域の近くには原発があって、電力会社から毎年原発給付金が送られてきます。ようは、この給付金で原発に関する少々のことは多めに見てください地域の皆さん、という多少の心付けなのですが、よこすものは受け取るわけでして、これで伸び放題の髪の毛を切りに床屋にいけます、笑。
それはいいのですが、CMで「日本の電気の3分の1は原発です。原発の使用済み燃料の廃棄場所がありません、どうしますか」というようなものがあるのですが、そんなことを言われても困ります。
原発を作ったのは国民世論ではなくて電力会社と国なのですから、困った責任ばかりをお金を払って使っている我々に押し付けるのはちょっと違うんじゃないかなと。
捨て場所に困るならやはり原発は動かさないで、それで電力をまかなえないなら我慢するしかない。電力会社と認可した国が責任を持って処理すべきことです。それをCMでさも原発を作ったのは私たちのせいだといわんばかりに、あなたのこのゴミをどうしましょうか、って、なんだかおかしい。


昨日今日は、街角の辻辻で音楽演奏が溢れる「街なかコンサート」フェスティヴァルでした。
いつもはお世辞にも活気があるとはいえないこの街の週末ですが、こういうイベントがありましたから賑やかに街行く人で溢れていました。普段の週末もこの3分の1程度でいいから、街を歩いて楽しむ人たちがいてくれたらいいのにと思うのです。
街は人が行きかっていて街であって、人がいない街は街ではないし、特定の一箇所中央施設だけでは街はますますつまらなくなってしまう。つまらない街に人が集まるわけがない。人が集まらないから街が過疎化する。そういうスパイラルが多くの地方都市やこの街にトグロをまいているのです。
歩いたり移動したりできる魅力がある街は楽しく健康な状態です。また、歩いてこそ発見できるものが実に多いのも街の特徴です。人が歩くから街が活気付く。活気付くから街が面白くなる。面白い街には人が集まり、また歩く。そういうスパイラルこそ、なにゆえ街なのか、ということです。



マイ・フーリッシュ・ハート         ビル・エヴァンス・トリオ


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by greenwich-village | 2009-10-26 01:00 | その他 | Comments(2)
これだけ文明が発達して新しい家電道具やシステムがあるのに、そういう先進国的生活をしていても、なぜだかいつも忙しくセカセカとしていませんか。
文明の利器の売り言葉は、これで時間が節約!とか一気に収納!とか簡単便利なのに、それで余ったはずの時間や余暇はまったくのんびりせず、かといってまとまった何がしかの興味にあてるわけでもなく、そこでもまた文明の利器をつかってこれまた時間も空間も節約しているはずなのに、いっこうに安らいでいるような気配が見えない。
利器が溢れれば溢れるほど、時間や空間や財産以上に、なぜだか生活までもがせせこましく、また空虚になっているのが先進国の現実のひとつではないでしょうか。

文明の利器が進んでいない国やそういう村々での暮らしのほうが、なぜだかゆったりとした時間が流れている感じがしますよね。
結局、利器やシステムというのは、節約短縮で楽になる反面、生活全般における全体性を切り刻んでバラバラにしてしまうもののような気がします。
ひと繋がりの一日、一ヶ月、一年、一生というものが、節約短縮可能な便利な利器によって断片化している。ちょうどTVのチャンネルを次々回したり短編映画を沢山見ているようなもので、仕舞いには何がどうなっているのか、どれがどうだったのか分からなくなってしまう。
そういう感覚が、なんだか忙しいセカセカとした生活感をもたらしているように思うのはボクだけでしょうかね。

利器は、たとえば多くの若者が持っているi-podなどは一万曲も入るわけで、携帯でも聴けるわけで、そこに次々とダウンロードしていく。それを持ち歩いて聴いている。
さてそれで、一体どのくらいの曲を覚えるでしょうか。どれだけの楽曲やミュージシャンを覚えるでしょうか。
いちいちそのたびに楽曲のタイトルやミュージシャンを確認したりはしないでしょうし、アルバム単位での印象というのも移動しながらですから味わいづらいでしょう。車や人をよけたり、改札をくぐったり間に合わないと駆け込んだり。
ですから、音楽という鑑賞物も必然的にじっくりと腰をすえて聴くような対象としては必要なくなってくる。
その真逆を言えば、利器が進んでいない国や場所、世界の村々では、その民俗の音楽演奏は必要不可欠で、それにたっぷりと時間を割いて皆がその真髄までじっくりと楽しむ。
分からないことは村の長老や家族が教えてくれたり、他の者たちに伝えていく。そこには食べ物があり踊りがあり話があり、そういう全体性が<文化>というものになっていった。

利器は本人も覚えきれないほどの数の音楽をストックし再生できますが、本人は何も覚えられない。覚えていない。音楽にまつわるエピソードも必要ない。バックボーンも知りえない。歴史や変遷も分からない。音楽それぞれの関係性も理解し得ない。あくまで、ダウンロードした<音楽データ>というだけのこと。
それ以外の利器に囲まれ使う生活の中で、また次々とストックし再生していく。再生しながら、他の利器によってTVを楽しみ、ゲームを楽しみ、マッサージチェアにすわり、風呂のボタンを押し、全自動洗濯機のスイッチを入れ、パソコンをつなげてオークションやデイ・トレードをする。
そういう利器の生活が、利器それぞれの利便性によって断片化されてしまった。
洗濯場での女たちの世間話も、縁台将棋での野次馬の親父たちの与太話も、銭湯での噂話も、商売の店先でのやり取りも、祭りや歌舞音曲を楽しむのも、先生や町内近所の人の小言も、生活全体の中でひとつながりの有機体だった関係性が、バラバラになってしまった。
そういうものが、ボクたちが暮らす現代の現実だと、利器を利用しているボク自身は捉えています。

音楽に話を戻せば、さて、この果てしなく進化した利器によって、では何を検索し再生しますか。
おそらくほとんどのものが、ネットによって検索可能だと思いますし、手に入れることも出来ます。
利器には、自分の脳では処理しきれないほどのデータをダウンロードしストックできます。
必然的に、脳は、これに関してはもう使う必要がなくなりますね。覚える必要がなくなる。考えたり想像したりする必要がなくなる。連想したり理解したりする必要がなくなる。
何でも見つかりますが、さて、何を探しましょうか。探すというくらいですから、すでに知っていること、手に入れているものではない、何かまったく知らないものを探す、ということですね。

ところでボク自身は、こと音楽に関しては、i-podもダウンロード/ストックもいらないのです。
ボク自身が、i-podみたいなものですから、笑。ダウンロードできないデータも収納されていますし。容量はi-podをゆうに越えていますしね。再生だって可能。
こんな偉そうなことを言っていると「なんだ、あいつは」と鼻をつままれるでしょうけれど、なぜかというと、ボクにとっては音楽は、どんな音楽であっても、エンターテイメントではなくて<文化>だからなのです。
エンターテイメントとしての音楽は、利器によって断片化されるでしょうけれど、ボクは<文化>として捉えているので、音楽は全体性を保ったままなのです。しかも、利器の真逆にある脳みそというアナログによってですから、バラバラになりようもないのです。音楽の、たとえば歴史の年表と地理の地図が付随しているのです。

話を元に戻して、ボクもこうしてちゃんと利器を利用しエンターテイメントを楽しみ経済で生活していますが、それによって文化が衰退し、理性や想像力の脳が退化し、生活の全体性が断片化されるのは避けたいと思っているのです。
そのあたりのバランスをとったり、行き過ぎたものや感覚がある程度元に戻るのはそう簡単ではないと思うのですが、利器が文化を衰弱化させることによって、結果、利器そのものも軽薄衰退していきますし、仮にそのまま流されても、誰もが断片化し自己喪失をしたままではいられないでしょうから。

衣食住と言いますが、簡易的なものではなくて、少しでも<本物>に触れる機会を増やすことである程度は下支えが出来ると考えます。
なぜなら、<基準>が設けられるからです。はじめから簡易性には基準というものはありませんね。基準があったら簡易性には邪魔になりますし、簡易性同士では基準も何もありようがない。
簡易性=基準、になっているので、すべての文化は衰退しバラバラになり失われてしまう。

発泡酒やチューハイだけで育って成立した味覚には、30年物のウィスキーはひどく不味いものに感じてしまう。
重い原酒シングルモルトこそ素晴らしいと刷り込まれた頭で飲んだ者には、職人中の職人ブレンダーが作り出したブレンデッド・ウィスキーでも大したことはないという頭(味覚ではなくて)で飲んでしまう。
回転寿司の深海魚か何か他の魚のエンガワがエンガワになって、ヒラメのエンガワはエンガワではなくなってしまう。
必要以上に食べながらダイエットマシーンの上に乗り、普通の食事を普通に食べるのを抑えてまで値の張るダイエット食品をほおばる。
睡眠薬抗生物質で不眠症を解消して健康な生活を送り、精神を自由に解放するドラッグで中毒になり依存症になり囚われる。
セレブと名づけた人を見てはうらやましがり、ホームレスと名づけた人を見ては安心する。

ボクらはそんなふうに暮らしていますね。
断片はつなぎあわせようにも散らばり過ぎていて、振り子が振り切れたままなら正常な時間は刻めない。


<本物>に触れる機会を持つためにこそ、文明の利器はあるわけで、それによって便利になり、時間が短縮され、労力もかからず、節約も出来て、それで余った余暇余力を<本物>に触れる機会に回せる。
そういう意味でこそ、利器は利器として活かされる。
では、何が本物か、ということになりますが、それこそまたもや、これだけの文明の利器ですから、検索すればいともたやすく見つかるでしょうし手にも入るでしょう。
何でも見つかりますが、さて、何を探しましょうか。探すというくらいですから、すでに知っていること、手に入れているものではない、何かまったく知らないものを探す、ということですね。

生活の中で、すでに出会っているものが<本物>であればそれはステキなことですが、同時に、何かまだ知らないものが<本物>であるかもしれませんね。

ただ高価なものということではなくて(高価というものはあっというまに価値がなくなりますから)、本物とは<本来のもの、本来の姿、本来の在り様>と言う意味であって、又、自分が本物だと感じるその対象に自然と波長が合うわけですから、<本物>は鏡のようなもので、実は自分自身の姿でもありますね。
本物、本来の姿であれば、本来の姿であるからこそ、生き物として全体的にゆったりと安堵できますね。
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by greenwich-village | 2009-10-24 01:09 | 音楽 | Comments(0)

ハロー、メリー・ルー!

東京にいた頃、広尾の明治屋や有栖川公園やインタナショナル・マーケットの近くに住んでいたのですが(とはいってもボクは銭湯通いで部屋は風呂なしでした、驚きでしょ!)、子供の頃から、アオハタや明治屋やソニー・プラザの食品商品に強く遠い異国を感じていました。

むかし、キューピー・マヨネーズのアオハタ商品でオレンジマーマレードのCMがありまして、アメリカの田舎ならどこにでもあるありふれた風景にハロー、メリー・ルーが流れているもので、子供の頃、あぁ、これがアメリカなのかぁと思った大好きなCMでした。それほど古い風景ではないのですが、自分の中では古き良きアメリカといった印象があったと思います。
後に、アメリカを回ってグレイハウンド・バスで旅していたときに見た町々やドライブインやフリーウェイの風景を目にするたび、頭の中に流れるBGMの一つはこのハロー、メリー・ルーでした。
ニューヨークからシカゴへ向かうバスで乗り合わせた隣の席のドレッドヘアの若い黒人女性は、ヘッドセットでカーペンターズを聴いていました。
89年。父親ブッシュによる第一次中東戦争が始まったのは、帰国して少し経ってからでした。

Good Old Days、Hits。
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リッキー・ネルソン、デル・シャノン、ビル・ヘイリー、プラターズ、スコット・マッケンジー、トーケンズ、パティ・ペイジ、パーシー・スレッジ、チャック・ベリー、ドリフターズ、メリー・ポプキン、ショッキング・ブルー、チャビー・チェッカー、コニー・フランシス、ロイ・オービンソン、リトル・リチャード、ベンチャーズ、BJトーマス、エヴァリー・ブラザース、他。

ハロー、メリー・ルー            リッキー・ネルソン

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by greenwich-village | 2009-10-23 17:34 | 音楽 | Comments(0)
「不滅の2.9」と称賛されたアルファロメオ
フランクリンミント社製  1937年型 アルファロメオ 2900B
全長約203(mm)/縮尺率:=1:24

アルファ・ロメオ          (フランクリン・ミント社製)
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1930~40年代にヨーロッパの自動車レースを制覇、ペブルビーチ・コンクール・デレガンスで最高の栄冠を獲得した名車の1/24ダイキャスト・モデルです。
独特のグリルや風防、ルーバー付きボンネットまで正確に縮小再現。総パーツ150以上を手作業でペイント、組み立て。2.9リッター8気筒エンジンの精巧なディティール。ドアやボンネットは開閉自在。ハンドルと車輪が回転。
オフィシャル商品/ボンネット、トランク、ドアは開閉自由/ステアリングも可動/総パーツ150以上を手作業で忠実に再現。特価13800円。
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by greenwich-village | 2009-10-21 15:09 | もの・モノ | Comments(0)

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