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知のモラル

f0148098_16233469.jpg昨今の、毎日のように起こる大小おびただしいネガティブな事件・記事に触れるたびに、単なる「モラルの低下」などといったレベルでは計れない、得体の知れない深層心理を直観します。

豊かな国であるはずなのに、まるで内乱内戦のように戦々恐々とした錯乱した稚拙な思考・心理の、その割合の多さ。

事件そのものはもちろんですが、その意識表出が育まれている社会・環境・状況とった、無意識で自動的な温床性・連動連鎖性。一部の者が突出しているわけではなく、潜伏する潜在者の蔓延。それら潜在者たちによって構築される一部の突出者。疲弊した汎社会・汎文化の幼児性の逃避衝動。親や先生、大人も子供も友達も、老若男女かかわらず。非知の時代へ。

<知のモラル>抜粋-

「二十世紀の歴史は、部分的に相対的な安定性が垣間見られたとしても、全体としては血塗られた歴史でした。戦争、抗争、制圧、飢餓、暴力、貧困、差別、排除、無理解、ヴァン・ゴッホの言葉ではありませんが、人間の悲惨と悲しみはけして終わらない。人間理解のために費やされた膨大な努力もこうした現実の前ではまったく無力であるように思えてきます。知は生き生きとした人間的な現実を作り上げていく力であるどころか、むしろ絶望的な無力をまざまざと露呈させているかのようなのです。
一方に過剰な物質的な力、他方に人間に対する絶望的な無力-この二つの極のあいだで、現代の知は、そのありうべき本来の力を失いかかっているように思われます。そして、それ故にこそ、この時代に知を希望へ結びつけることが途方もない困難に思われるのです。

(中略)

たとえ時には絶望的なまでに困難に見えようとも、われわれがむしろ知をわれわれのモラルの条件のひとつに考えようとする理由があります。すなわち、知は、おそらく最終的には、それが理解しようとし、理解したとするその「なにか」とともに生きることを可能にしてくれるべきものです。その「なにか」が物質的なものであれ、人間的なものであれ、知ることが理解や了解につながり、その理解や了解がともに存在しともに生きること、いや、さらにはともによりよく生きることにつながる-それが、知のミニマルのモラルであり、ミニマルの希望であるはずなのです。

(中略)

けっして単なるモノとしての人体には還元できない一個の特異な人間存在としての他者、それは、知の能動性や操作性を頼り、それを受け入れようとしている受け身の存在としての他者であり、しかも自らの身体が問題になっているにもかかわらず、それに対して知のゲームを行うことができない無知の他者、あるいは非知の他者というわけです。知の権能をもっていません。知の言語を使用することのできない弱者です。しかし、明らかなことですが、知が責任を負っているのは、あくまでもこの他者に対してであって、けっしてモノとしての人体に対してではありません。モラルが問われるのは、つねに他者に対してなのです。まったくあたりまえのことなのですが、モラルとは他者に対するものなのです

(中略)

この他者は、それが誰であれ、その特異性と現実性において、いや、人間という存在において、圧倒的に、比べることができないほどはるかに尊い。知がけっして把握することができないほど、複雑で、豊かで、深遠なのです。そして、知が応えなければならないのは、言い換えれば、知が責任があるのは、あくまでもこの他者に対してなのです。
おそらく、知のモラルの問題は、このことをはっきりさせることに尽きるのではないでしょうか。
つまり、行為としての知の責任は、なによりも他者がよりよく生きることに対して向けられなければならない。他者とは生です。その生がよりよく生きるためにこそ、知は貢献しなければならないということです。

(中略)

あくまでも知という原則にこだわる限りにおいてですが-というのも、こうした極限状態においては、知という原則を捨てて、たとえば「愛」というようなまったく異なる原則へと移行してしまうことも可能だからです-、われわれは、それでもなお言葉の力、コミュニケーションの力の内に立ち止ろうとするべきだと思います。というのも、われわれは、まさに言葉をもたない者に言葉を貸し与えることができるのが知だと考えるからです。

(中略)

相手をあくまでもコミュニケーションの可能性を備えた他者として扱い、他者として理解しようとすること。自分のコントロールを超えた独自の世界をもっている人間として「ともに生きようとする」こと-そこにモラルの方向性があると思います。モラルとは、「ともにある」ことへと開かれた他者の存在を認め尊重すること以外のなにものでもないのですから。
そして、知という観点からは、「よりよく生きる」ということは、とりもなおさず、コミュニケーションを通じて相互に了解しようと努めながら生きることであり、その開かれたあり方こそがまた、人間の尊厳でもあるからです。

(中略)

詩人リルケがうたったように、動物とは異なる人間の人間らしいあり方は、なによりも世界に対するその「開け」にあります。人間は直立し、世界と向かい合って存在し、そうして世界を問い、世界を知るための言語を所持しました。言語を通じて、人間は世界へと開かれている。そして、知とは、まさにその言語の力を通じてより一層深く、世界を理解し、世界へと開けれていく努力にほかならないともいえるのです。
そこに、知が人間の尊厳のひとつの現われとなる理由があります。

(中略)

人間の知の尊厳、知ることとは、そのように世界へと開かれて、世界と自己とをともに理解しようとすることにほかありません。
しかし、同時に、われわれは「知っている」だけでは十分ではないと言わなければなりません。世界に対する知の尊厳は、かならずしもそれだけではほんとうの人間的な尊厳を保証しない。それどころか、しばしば見受けられることですが、知の尊厳がそのまま単なる権威的な尊大さにつながることもあるのです。
とするならば、われわれとしては、あらためて知は他者の尊厳を認め、理解し、あるいは他者にその尊厳を与え返すことによってはじめてみずからの尊厳を得ることができるのだと強調しておかなければならないと思います。
他者の世界がより「開け」られ、広がること。つまり、みずからをよりよく知り、了解すること。そしてより多くの可能性に対して開かれること。
それをあるいは、「自由」という言葉で呼んでもいいかもしれませんが、そのような他者の「自由」に貢献することが知の使命であるはずなのです。

(中略)

現実の決定が迫られる現場においては、時間はつねに切迫しています。そして、それこそがおそらく、モラルの問題のもっとも根本的な条件なのです。もしそれぞれの人間に時間が無限にあるのだったら、そこではモラルの問題は提起されないでしょう。時間が不足しているところ、その切迫のもとで決定しなければならないからこそ、モラルの問いが提起されるわけですが、しかし同時に、それだからこそ、モラルはそのはじめの条件からして危うくなっているわけです。
だが、それこそがモラルなのです。
すなわち、もしわれわれがみずからの行為を完全に倫理的に正しいと自認するようなら、それはまったくモラルではありません。みずからの行為を正当化することがモラルの問題ではないのです。
モラルはイデオロギーではない。自分に対して倫理的に正しいという判断をあらかじめもってしまっていることほど、モラルとして醜いことはありません。
そうではなくて、みずからの行為が正当であるかどうかの保証がなく、確固とした判断基準もないところで、しかしみずからを判断基準にするのではなく、あくまでも他者を基準にしてみずからの行為を考えようとすることこそがモラルです。

他者に時間を与えようとすること、
他者にコミュニケーションのための言葉を与えようとすること、
他者にその未来への「開け」を与えようとすること、
つまり、他者に希望を与えようとすること、
-そのような気遣いこそがモラルなのだと思います。

(中略)

われわれは希望を語らなければならない、知は希望を語らなければならない。人間にとってのより広い理解の可能性、より開かれた生の可能性について語らなければなりません。現実のさまざまな切迫を前にして-その現実に抗して-。」

(「知のモラル」知のモラルを問うために/小林康夫)より
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by greenwich-village | 2008-06-27 16:29 | その他 | Comments(0)
「ペンギン・ビート急行」のナヴィ村さんのエントリーから、とても興味深くまた誰にとっても現実として重要なことなので、一人でも多くの人にと思いコピーしました。
単刀直入に、真摯に、リアルに、意味と意志と行動を持った言葉。まさに「伝説のスピーチ」です。

音楽狂いの僕ですが、何かまわず「音楽は世界共通言語だ」とか「音楽は伝わる、音楽で世界はひとつ、一体感」だとはまったく思ってはいません-よく周りを見渡して、心を持って耳を澄ませば分かるのですが、そういう一体感とは多分に虚栄や虚勢、現実の孤独感・空虚感の逃避的補填でしかないでしょう-。

けれど、「言語としての言葉」ではなくて意味としての言葉は<世界共通>だと思っています。
言葉はただ言葉として完結するものではなくて、「言葉として行動するもの」ですね。

ブラジルのリオで開催された環境サミットでの、12歳の少女による伝説のスピーチ。
7分足らずのものですので、ぜひご覧になってくださいね。確かな言葉こそ伝わるものですね。

http://jp.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg&eurl

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by greenwich-village | 2008-06-25 23:05 | その他 | Comments(4)

ブラック

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f0148098_12304337.jpgピカソと共に絵画革命「キュビズム」の立役者にフランスのジョルジュ・ブラックという画家がいます。ピカソの饒舌な作風に対して、ブラックにはどこか静謐な佇まいを感じます。<「観念」からではなく、つねに「手仕事」から新しい発見と力をくみ出してくる>彼の「言葉」も素晴らしいものばかりです。


「感覚は形をこわし、精神は形をつくる」

「私は感動を修正する規則を愛する。私は規則を修正する感動を愛する」

「画家は色彩と形態で考える。その目指すところは詩学である」

「私は欲することをやるのではない。私にできることをやる」

「芸術において価値あるものはひとつしかない。説明できないものがそれだ」

「芸術は不安を与えるためにつくられる。科学は安心させる」

「芸術は空を飛翔する。科学は松葉杖を与える」

「創造しようと思うものを模倣してはならない」

「作品が頼りないと、その作者はヒロイックな姿勢をとりたがる」

「芸術には、<民衆の芸術>と<民衆のための芸術>がある。後者は知識人がでっち上げたものだ。私の考えでは、ベートーヴェンもバッハも、民謡から霊感をうけるにさいして、音楽に階層差別をつけようとは夢にも思わなかっただろう」

「私は自然と共鳴状態になりたいと思う。それを模写しようとはさらさら思わない」

「描くための手段が限られているとき、そこから新しい形態が生まれ、創造がみちびきだされ、スタイルがつくられる」

「芸術における進歩は、限界を拡げることにはなく、その限界を一層よく知ることにある」

「私は革命的な画家ではない。私は熱狂を求めはしない。情熱、これがあれば充分だ」

「画一主義は定義づけから始まる」

「物を定義づけすること、それは物の代わりに定義を置いてしまうことだ」

「人は、川の流れを変えることはできる。だが、流れを源に逆流させることはできない」


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by greenwich-village | 2008-06-23 13:08 | | Comments(0)

3K

<ウィキペディア>よると「3K」は下記のような意味。

頭文字がラテン文字でKとなる語が3つ続いたもの。

仕事が「きつい(kitsui)」「汚い(kitanai)」「危険(kiken)」の意。
トイレが「汚い」「暗い」「臭い」の意。
群馬県の名物「空っ風」「」「カカア天下」。
ギャンブル競馬(keiba)・競輪(keirin)・競艇(kyoutei)の意。
クー・クラックス・クラン、通常の略語はKKKだが、これをさらに3Kと略す。
消費者金融の構造的な問題、高金利・過剰貸し付け・過酷な取り立ての意。
社会問題になった建築基準法・貸金業法・金融商品取引法の意。
住宅の間取り寝室となる部屋が3部屋とキッチンがあること。
*3ケルビン。特に、3K宇宙背景放射。 *産経新聞の当て字 *3連続三振
ITサービス業界の「きつい」「帰れない」「給料が安い」。さらに「休暇が取れない」「規則が厳しい」「化粧がのらない」「結婚できない」を加えて、7Kという。

きれい、かわいい、かっこいい、金持ち、気だてがいい、気が利く、とかも「K」なわけですけれど、グリニッチ・ヴィレッジの3Kは、「頭文字がラテン文字でKとなる語」では毎度のパターンなので、ちょっとひねって「語尾にKがくる語」。

<アコースティッ><オーガニッ><ユニー

言い換えれば、アコースティックは等身大、オーガニックは自然体、ユニークは独自性といったところで気取ってみましょうかね。

でもこれ、「K」ではなくてやはり「」なわけで、そうなると「3ク」で、あららっ、<三重苦>ってことになってしまうんですね。いやはや。
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by greenwich-village | 2008-06-22 21:19 | その他 | Comments(0)

蚊取り線香は燃えている

グリニッチ・ヴィレッジは、

たとえば、デジタルライクなシステムにスポイルされ、ややもすると感性や発想や人間関係まで知らずと侵食され、殺伐とした超合理主義に傾きがちな暮らしに、少しだけ煙たい蚊取り線香を焚いてやろうという試みなのです。

風情や情緒というものは、古今東西世界中の至る所にごくごく当たり前にあるものでして、ただそれが現代社会の普段の生活では、デジタルやデータや即効性によって合理的に覆われてしまって見つけづらくなっているわけですね。

つい最近まで、学問が好きな者は学者馬鹿や医者馬鹿になり、苦手な者は職人馬鹿になり、芸事が好きな者は役者馬鹿になり、絵が好きな者は絵描き馬鹿になり、大自然にいたい者は農業馬鹿や漁師馬鹿になり、商売が好きな者は商人馬鹿になり、それぞれが各々の頑固で愚直なまでの目線をもって、向こう三軒両隣互いに成立する環境でした。

(いまや社会は頭でっかちと欲たかりで小賢しく成熟しきったようです。
伸びきったゴムもバネも元には戻りませんから、修理ではなく交換するしかありませんね。もし世の中とそこに暮らす人の心が有機的な“植物のようなもの”ならば、修理交換する必要はなく、自然に治癒し再生し、再び成長し始めるわけです。)

生れて間もなくから勉強や成績に追い掛け回されて、大人になってもそのままで我関せず、それだけで生涯を終えるような社会ではありませんでしたし、子供は子供らしい居場所、年寄りは年寄りなりの役目がありましたね。暑い日には簾や打ち水や扇風機や行水がありましたね。

いまはなくなってしまった、のではなくて、そういう“美”と“美意識”が見つけられず見つけづらくなっているだけなように思えます。
老若かかわらず、人の暮らしぶりとそれによる心は明らかに変貌しましたが、目が二つ耳が二つ口がひとつに頭がひとつの“人そのもの”はなんら変わっていないのですから。

煙たい蚊取り線香を焚いてやろうという試みですが、グルグルの渦巻きも二時間ほどで燃え尽きて火種も灰になってしまうわけですから、燃え尽きてしまえば薮蚊にブチブチさされてしまいます。それでも蚊取り線香の匂いは尽きた後もしばし残ります。

鼻がひとつに鼻の穴が二つの人間にとって、匂いはそのまま記憶に直結しますね。しかも穏やかに蘇りますね。この記憶はデジタルやデータとはまったく異なるものですね。

パソコンが壊れて本体内の以前のデータは失われてしまいましたが、グリニッチ・ヴィレッジ店内の蚊取り線香は今夜も煙たい煙を吐いています。
こうしてまた再び、デジタル機器のキーボードを叩いてネット/ブログを更新し始めているわけです。

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by greenwich-village | 2008-06-20 21:17 | グリニッチ・ヴィレッジ | Comments(0)
いま「ドキュメント’08」という番組で極東で最大級の「山口県・岩国米軍基地」の問題を取り上げていました。
先祖の古くからその土地で生活している旧日本軍に土地を奪われた地域住民の方々の苦悩。

なによりショッキングでゾッとしたのは、基地解放デーに二十万人が集まり、若者から幼児までが戦闘機や自動小銃や米兵と一緒にVピースサインでにこやかに写真を撮っている場面。
それらの武器や兵隊は戦地に直結していて、アフガンやイラクで罪もない人たちを殺害しているのです。

さよならアメリカ、さよならニッポン。
アメリカが日米安保の名の下に決して日本を守っていないのは明らかで、またこの国は嘘と補助金で立場のない地方や弱者をさらに追い込んでいるのでした。
米軍のために税金が使われています。
政治屋も官僚屋も、全員ではないでしょうが多くの人が愚かで、売国奴です。

住民投票は無視され、地方交付金は凍結され、地方分権からは逆行後退し、民主主義とは明らかに名ばかりで、この国の二次大戦と国家主義と嘘のプロバカンダとエコノミックアニマルはいまだに続いているのです。

アメリカは終っていますし、ニッポンも終っています。そう感じました。現実はいつも最悪なものです。
どうか賢くあってください。狂わないで、まともであってください。

今この国が、国家から犯罪まで、権力や無関心や愚者狂人たちによって絶望的な状況でも、必ずどこかに光はあると信じています。

どうか身の回りで少しだけでも、お金ではなくて、優しさや安らぎを分け合ってください。
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by greenwich-village | 2008-06-16 02:07 | その他 | Comments(2)

たとえば、
音楽でいえば、メトロノームではないという
映画でいえば、動員数ではないという
モードでいえば、スタンダードという
木工芸品でいえば、無垢材であるという
デザインでいえば、オリジナルの発想という
食べ物でいえば、安全で新鮮という
関係でいえば、知り合いではなく友達という
人間でいえば、感性という

“自分という個人”の「質」を育むことが大切ですね。
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by greenwich-village | 2008-06-05 01:45 | その他 | Comments(0)

大地

あてがわれたものではなく、自分がやるべき仕事を、ひたすらひとつひとつこなしていれば、
自分の足場は知らない間にちゃんと耕されていて、豊かな土壌になっているものですね。
やせた土地には何も育ちはしませんが、肥えた土地には必ず花が咲き実も結びますね。
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by greenwich-village | 2008-06-04 01:52 | その他 | Comments(0)

島国の法則

「大陸のように広大ではなく、逃げおおせる空間が少ない場所では、
行動範囲や捕獲・外敵と食物連鎖や自給率・消費の関係から、
大きな動物はより小型になり、小さな動物はより大型化する」とのこと。

閉ざされた「島国の法則」なのだそうです。
なるほど確かに人も同じく。外的にも内面も同じですね。島に限らず「村社会」という意味でも。
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by greenwich-village | 2008-06-02 23:20 | その他 | Comments(0)

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by グリニッチ・ヴィレッジ