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フォスター/Hard Times Come Again No More

プライムローン、リーマンからクライスラー・GM・フォード、トヨタ・ニッサン・ホンダ、ソニーやら東芝やら、アメリカも日本もビッグ3どころか大企業が倒産・減益・減収、もちろん中小・零細企業もあおりを食らって、リストラ、派遣首切り、職も見つからず、風評具合で家計財布の口も締まりがちで、街の飲食・物販も人気も少なく、込み合うのはハローワークでも求人も数に見合わず、とにかくやたらに不景気話で日が暮れるわけですが、そうであってもあくまで前向きにこの不況のハードタイムスを乗り切っていかなければならないわけで、この曲はとても古いものですが多くのミュージシャンによって歌い継がれている、今日的なアンセムであり、人の心の根底の部分から、生きる力と勇気と希望と救済を促し、厳しい不況の昨今だからこそ聴かれるべき内容だと思えます。Hard Times Come Again No More 。

おおスザンナ Oh, Susanna(1848年)
草競馬 Camptown Races (1850年)
ネリー・ブライ Nelly Bly (1850年)
故郷の人々(スワニー河)" Old Folks at Home (Swanee River) (1851年)
主は冷たい土の中に Massa's in De Cold Ground(1852年)
ケンタッキーのわが家 My Old Kentucky Home(1853年)
金髪のジェニー Jeannie With the Light Brown Hair (1854年)
すべては終わりぬ (厳しい時代はもうやって来ない)Hard Times Come Again No More (1854年)
オールド・ブラック・ジョー Old Black Joe (1860年)
夢見る人(夢路より) Beautiful Dreamer (1862年)

<Let us pause in life’s pleasures and count its many tears,
While we all sup sorrow with the poor;
There’s a song that will linger forever in our ears;
Oh Hard times come again no more.

人生の喜びに安らぎ  そして涙の数を数える
不幸な人々と悲しみを分け合うとき  耳に残って離れない歌がある
「不幸な時代よ、もう来ないで」と。>


フォスターの死後約60年後の世界大恐慌のときには不景気の世相を受けてアメリカで盛んに歌われたそうです。
いろいろなミュージシャンがいろいろなスタイルで歌い継いでいますが、ゴスペル・シンガーでもあるメイヴィス・ステイプルのカヴァーから。

「Hard Times Come Again No More」 on [youtube]
http://jp.youtube.com/watch?v=qxRr5O8tI1c



フォスター/Hard Times Come Again No More _f0148098_1948337.jpg<スティーブン・フォスター>  ウィキペディアより

スティーヴン・フォスター(Stephen Collins Foster, 1826年7月4日~1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。「アメリカ音楽の父」とも称される。

ペンシルヴァニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育つ。音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していた。

フォスター歌曲の多くは、ミンストレル・ショーの伝統に則り、時流に乗ったが、アフロ・アメリカンの音楽を単にカリカチュアしてみせたというよりも、白人向けに書かれた当時の楽曲には珍しく、黒人奴隷の苦しみに共感を示してみせている。白人作曲家として最初に、睦み合う黒人夫婦を描き出したのがフォスターである。これゆえにフォスターは、とりわけフレデリック・ダグラスの称賛を勝ち得ることになった。
フォスターの歌曲はほとんどが南部における日常を扱っているにもかかわらず、フォスター自身は1852年に新婚旅行でニューオーリンズを訪れたのを別とすれば、南部で直接的な経験をしていない。

フォスターはプロの歌曲作家として生計を立てようとしており、プロの作曲家と見なしてよいのだが、当時は現代的な意味で「作曲家」という職業分野は確立されてはいなかった。
その結果、部分的には、音楽著作権や作曲家の印税に対する配給の乏しさのため、フォスターは自分の出版譜がもたらした利潤をほとんど受け取ることができなかった。複数の出版社がしばしば競合してフォスター作品の独自の版を出しながら、フォスターには報酬を与えなかったのである。
1862年初頭にフォスターの運は下降線をたどり始め、そうなると彼の新作歌曲の質も落ち始めた。これは、作詞を引き受けるようになったジョージ・クーパーとのチームワークのせいでもあったかもしれない。戦時経済も出版に向けてのフォスターの努力に災いした。

フォスターはマンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中に、落ちぶれ果てて(所持金38セントしかない状態で)、37歳で死去した。なきがらはペンシルヴァニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。
by greenwich-village | 2008-12-18 21:04 | 音楽

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