桜の森の満開の上

「発明と発見」

先日、自宅でウィスキーを飲みながら本を読んだりして夜中にボーッとしていたら、とあることを発見しました。
世の中に“発明”と称したり呼ばれたりする物事は多々あるが、それらは“発見”であって発明ではない」ということを!!www

たとえばエジソンは発明王と呼ばれますが、彼は何かまったく存在しないような物質を発明したのではなくて、それらの発明品が成り立つ原理・摂理「コレがコウなればコウなる、アレがアアなればアアなる」というようなモノの道理・筋道を見つけた“発見者”なのではなかろうか、と思うのです。
ということは、発明といわれるような“新しい何か”の原理は、実はもうすでに全部、ボクたちが暮らすこの物理界には“ある”わけで、エジソンが“発見”したのであって、タイミングがずれていれば他の誰かが発見したかもしれない、などと考えるわけです。

だからエジソンは「発明者」というよりも「発見者」といったほうがしっくりくるように思えます。ただし、エジソンはたまたま偶然発見したわけではないのは勿論で、彼の言葉曰く「99%の努力」があってこそ、普通の人が見逃して見過ごして、バカバカしいと考えもしないような新しい現実の仕組みを発見できたのだと思います。

そういうわけで、“発見した道理”を具体的に形にしたモノが“発明”品と言われます。

「発見」は何か妄想のようにありもしないものをワケの分からない理屈でこねくり回すことではなく、ただものの道理”をただそのまま“見る”ことだと思います。
その“モノの道理”も、実はとうの昔からココかソコかどこにでもあって、また新たに誰かに発見されるのを待っているわけです。
ピラミッドや遺跡ばかりが「発見」ではなくて、アイディアやヒントや創造性、閃きや活力も「発見」なのだと思います。その意味で、人間は何も発明していないのだろうと。
リンゴが落ちるのを見て引力を知り、空を飛ぶ鳥を見て飛行機を作り、焚き火よりも強い電気やノロシよりも早い電話を生み出しました。元々あるもの、元にあるものを見て、それをただ当たり前だと見過ごさずに、そこからの新しい何かを「発見」したわけですね。


小説家・梶井基次郎には「桜の木の下には・・・・云々」という作品があります。同じく小説家の坂口安吾には「桜の森の満開の下」という作品があります。
どうも文学者というのは、やたらにうつむいて下ばかり見ているようですね。苦悩するのは分かりますが、下ばかり見ても樹の根や土しか見えないでしょうし、せっかく満開の桜が咲いているんですからもっと上を見たらいいのに、桜の下にいて花も見ないでうつむいて文学的苦悩を自分の目線の下のほうにばかり求めようとする癖があるみたいですね。まぁ、だからこそ文学的なイイ作品なわけですが。

桜の木の上のほうには空があって、雲が形を変えたり太陽が隠れたり風が花を揺らしたり、気持ちいいなと感じる“人の道理”があると思うのです。

3歳児にはお金持ちも天才もアスリートも、政治家も社長も悪人も変態もテロリストも、神経症も中毒者も性格の良し悪しも美男美女も、借金や失業も失恋もコンピュータも、主義思想も苦悩する文学者や傲慢な芸術家も、リウマチや更年期障害や通風も糖尿ももちろんなくて、そんなものは押し付けられたか望んだか、無闇やたらに“発明”された生活実用新案特許であって、
頭を上げて顔を向けて桜の木の上のほうを見れば、“3歳児の道理”が今でもちゃんとそこにあるのを“発見”できるんじゃないでしょうか


桜の森の満開の上の、青空。
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by greenwich-village | 2008-03-22 22:56 | グリニッチ・ヴィレッジ | Comments(0)

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