6年目に寄せて、個人的な

「6年目に寄せて、個人的な」

3月11日以降、直接的にも間接的にも、震災・津波・原発は、多くの人たちの心に変化をもたらした。
私個人の変化は、いや、変化というよりも、それらの出来事によって、明快な確信を得た。
娯楽であるか、娯楽でないか、という確信を得た。
通常生きているすべてに関して、喜怒哀楽衣食住文化芸術高尚低俗労働趣味理屈論理慰安金銭物質精神自意識、それらはすべて娯楽であって、人がその人として生きているという拠り所として、日々の糧になっている。
人が生まれて死ぬまでの間は、人はそういう娯楽の中で現実の肉体として生きている。
現実の肉体でありながら、そういうものを喪失した日々を過ごして見えたものが、娯楽か娯楽でないか、ということだった。
森羅万象自然界のことではなく、人が住み人が生きている人の世の世界は、人の娯楽で出来上がっていた。
そこにあるものすべて、ほんとうにすべての事柄物事精神は、人の娯楽だった。
得体の知れない非日常の恐怖から避難する日々に、人の世の娯楽は一切なかった。あってもまったく必要ではなかった。必要だったのは、人の世の娯楽ではなく、明日をも知れない恐怖からの救済だった。
人の世は再び娯楽を取り戻したようだが、私個人にとっては、明日をも知れない恐怖からの救済は未だに終わってはいない。
人の世はそれがどのようなものであってもすべて泰平ゆえの娯楽であって、それらの娯楽は、底知れぬ恐怖によって一瞬にして行き場もなく打ち砕かれる。
3月11日以降、私個人が明快に得た確信は、娯楽なのか恐怖なのか、ということだ。
死が娯楽になり生きることが恐怖になるような、人の世のこの時代だ。


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by greenwich-village | 2017-03-10 23:38

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