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無差別大量殺人の世界


人を殺しても、殺されてもいけないのです。

原爆の日が過ぎて、もうすぐ終戦の日になります。
「なぜ戦争をしていけないのか?」ということを問う日です。
いかなる理由・論・理屈を積み上げても、戦争に参加してはしてはいけないのです。
言葉を使って、それぞれの角度から解釈して、賛否が分かれていますが、
「迎撃/自国を防衛する」ことと「反撃/他国を攻撃する」ことは全く違う事柄です。


戦争は「犯罪」です。日常生活での犯罪・殺人と何ら一切変わらないものです。
無差別に人を殺すのです。
職業軍人や特攻隊や自衛隊だけが殺し合う行為ではありません。原爆や爆撃の下で、どれほど多くの一般人が死んでいったか。一般市民も巻き込まれるのです。イスラエルや中東やウクライナや世界の紛争地帯では、今でも一般市民が巻き添えになって死んだり片輪になったりしています。

日常生活の犯罪で、自分の大切な家族や友達が殺されたら、悲しみ怒り絶望しない人はいないでしょう。それと全く同じ行為が、しかも無差別に大量殺戮されています。
犯罪者や戦争責任者が裁判を受けて、死刑になったとしても、失われた人たちは戻らず、遺族は残された人生を空しく一生忘れずに生きていくのです。

日本人や一般市民ばかりではなく、自衛隊員も敵国も職業軍人もみんな同じ人間で家族がいて、どの国が勝とうが負けようが、死者は出ます。死者には同じように家族がいます。遺族は、国のためとはいえ、同じように空っぽの人生を生きていくしかなくなるのです。

太平洋戦争で死んでいった兵隊は、骨さえなく、暫定的に体裁上「靖国神社」に祀っています。人が神様になるわけもなく、靖国神社は大きなお墓なのです。
遺族はそれを拝みますが、多くの人たちが、しかたなく拝んでいるでしょう。できれば、せめて骨を持って自分のお墓に収めて供養してあげたいと思うのが、親であり家族でしょう。なにもない、しかたなく大きなお墓の靖国神社を拝んでいると思います。

原爆や沖縄でも、亡くなった市民の慰霊塔を供養していますが、それもまた出来ればせめて家族のもとで供養させてあげたいと、多くの人たちが思っています。

硫黄島などで戦死した日本兵・アメリカ兵たちにも同じように家族がいます。
敵だとか自国民だとかは関係ないのです。人が人を殺すのは重罪で、戦争だから許されるとか、自国を守るから良いだとか、安保同盟国・国際社会に参加しなければならないから人を傷つけ殺してもいい、ということにはならないのです。

いかなる理由・論・理屈であろうと、人殺しは人殺し以外の何ものでもないのです。人が人を殺すのです。

アメリカも日本も、今の政権も、二次大戦中の内閣も、彼らは命令しているだけですから、人殺しをしているという感覚が希薄です。
人殺しをするのは、命令に従う現場の職業軍人・兵隊・自衛隊なのです。
イスラム国やテロリストはもちろんですが、トルーマンも東條も、ブッシュやオバマ、連合軍諸国首相や大統領たちはみんな、大量虐殺の大犯罪者です。
戦争に参加し、戦争をする限り、世界の首脳たちは、現実的に殺人者たちですが、本人たちは手を下していないので、自分が人殺しだと思っていません。贖罪の気持ちなど微塵もありません。

「戦争」というから解釈や見解や論で重々しくなり、よくわからない感じにさせます。「巨大な殺人犯罪」なのです。
だから、戦争に参加・荷担することは避けるべきなのです。

日本中の一般市民が爆撃で死んでいったように、アメリカ兵たちが日本に爆撃し原爆を落としたように、中東や世界各国で、一般市民が巻き添えを食って死んでいます。遺族たちは悲しみ空しい人生を過ごします。そういう行為をしたり、そういう行為に後方支援したりしてはいけないのです。
殺しても、殺されてもいけないのは、日常犯罪同様です。
そうなったら「癒し」などどこにもないのです。癒されない生涯を送ることになるのです。

抑止力・自国民・邦人保護のためだけではなく、敵国・他国の兵隊も一般市民も殺してはいけないのです。
だから、安保法案は全く危険なものなのです。
by greenwich-village | 2015-08-10 02:12 | グリニッチ・ヴィレッジ

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