結局、欲しいのはお金である

結局、欲しいのはお金である。

そのお金で、武器なり兵器なり食糧なり生活品なりを買う。買うということは当然売る側がいる。売買するための道具である。
売る側は誰なのか、どこの国なのか。売る側がいなければお金は無意味だ。
自分たちには生産性も経済もないのだから、他国が売らなければ売買は成立せず、お金は役に立たない。武器も兵器も爆弾も原料もなにもない。ただの紙切れだ。...
奪った油田の原油も、どこの国も買わなければお金にならない。電気も作れないし、原油から作られる製品の加工技術もない。ただの泥水だ。
宗教ではない。ただお金だ。お金での暮らした。暮らしがなければ、お金も宗教も満足感もない。
宗教・信仰というのは後付けで、ただ大規模な基地ごっこか大規模な出稼ぎをしている。お金と権力が欲しい指導者と幹部たちのもとへ、世界中から、暴力によって満足感を得たい者たちが、お金の暮らしの保証を求めて集まっている。一つの組織を維持するための経済や生産や産業などまったく頭にない者たちだ。
売る側としては、こういう連中はもってこいの上客になる。どこが武器や兵器を売っているのか。売っているからお金が必要になる。
結局は、欲しいのはお金である。

桃太郎は、わざわざ邪悪な鬼が島まで出かけて行った。幸いなことに鬼に捕まらなかったので、退治どころか、鬼の宝まで頂戴してきた。
鬼が島で、鬼にとってはその宝は宝でしかないのだが、人里に持ち帰ればたいそうな価値で、桃太郎もおじいさんもおばあさんも金持ちになり、贅沢な暮らしができるようになった。

冒険家や登山家は、旅に出る前に、もし死んでもしかたない、それでも目的地に行きたい、なんとか生きて帰れればいいが、と思うだろう。
知らないわけではない、危険だと知っていても、自ら選んで危険地帯に進んでいく。誰よりも本人自身が死を自覚している。死んだらどうしようと思うなら行くことはない。死ぬかもしれない危険地帯だけれど、誰かに頼まれたわけでもなく義務でもなく、自らの目的達成のために分け入る。

スキー禁止の裏山地帯に入り込んで遭難した自分本位の者たちがいたが、遭難しても当たり前の危険があるので立ち入り禁止区域だったのを、自ら好んで入り込んだ。
そういう区域だから、救助に向かう人たちも命を落とす危険がある場所だし、そのために多くの人たちと時間と費用が費やされる。
テレビ報道された救助され恫喝されるドレッド頭の姿は記憶に新しい。

生業という言葉をよく使うが、生業の対義語は、無償なり奉仕ということ。つまり「ただ」「無報酬」ということ。
この世で最も尊いことのひとつは「まったくの無報酬・無益の行為」。この無益には自己満足・自己顕示などの精神性も含まれる。
こういう行為からなされるものを踏みにじるものほど醜悪なものはないが、こういう行為自体が、そう滅多には存在しない。
必ずなんらかの益が含まれるし、対義語の「生業」ならばもちろんそうだし、生業を免れないものは、これまたほぼ存在しない。
行動理由は生業であって、無報酬・無利益どころか、旅費・食費も自分持ちで何の満足感も感じない作業をするようなことは、通常の生活者・成人の行動にはほとんどない。

何らかの生業によって、一連のすべての歯車はかみ合っている。

命は尊いし、殺しても殺されてもいけない。大前提だ。

それを大前提として、個人的にもっとも憤りを感じるのは、今回の日本人よりも、アフリカのボコハラムによる自分たち同胞の女性子供たちの大量拉致誘拐だ。
女子子供たちは、人身売買されたり、10歳ほどで妊娠させられ、爆弾を巻きつけられ知らされず自爆テロに使われている。

結局、欲しいのはお金である。

要求は、イスラム教復興ではなく、お金である。しかもご丁寧に「ドル立て」での請求である。彼らにとってもやはり「USドル」は魅力的なのだ。その時点で、イスラム原理主義も何もない。
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by greenwich-village | 2015-01-21 10:55 | グリニッチ・ヴィレッジ | Comments(0)

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