“常識”と“暴力”の作り方

慣例や風習、刷り込みや宣伝洗脳、サブリミナルやプロバカンダ、というものが“常識”の核になっている。
これは自然科学での客観的・再現的な摂理、原理、秩序、構造、生理とは全く違う。
客観性・再現性がないので、ここでいう“常識”は時代・地域・状況によって伸縮し、どんなふうにでも解釈され、風潮に染まり、正論化する。その正論も時と場合の人の都合で書き換えられる。
“常識”は、極めて主観的であって、また極めて大衆的であり、拠り所なく、身勝手な代物だ。

...日本人は本音と建て前、というが誰が言い始めたのか。今では日本を語る時のキーワードのひとつになっているようだが、本音と建て前は、日本人ばかりではなく世界中の国々も当然持っている。日本だけのものではないが、素直で純朴な日本人はそれを常識化している。

都合のいい一面性しかない“常識”で見たり考えたりすると、それは非常にわかりやすく呑み込めるが、それは猛毒でもある。
善い国、善い民族、善い宗教、善い地域などまったく存在しないのに、常識はそれが存在するように語り、人々もそれを無思慮に信仰する。
そこで対立が生まれ、軋轢が生じる。

“常識”は共通認識だから、全体を集約したもの。全体は決して集約不可能だが、統率連帯の意識から導き出される。
多くの人たちが1を見て10を語るが、口々に語り伝搬されている10は、都合のいい常識によっての幻想的な共有感覚にすぎない。
意識の中で、無意識に、または無知から、都合のいい部分だけをクローズアップしている。

善い国も悪い国も、善い民族も悪い民族も、善い宗教も悪い宗教も、そういう全体的なものは存在しない。他者が他者をカテゴライズして存在させようとしている、または、自らが自らを“所属幻想”に陥らせている。
そういった「限りなく主観的な二元論」が、全体をとらえるという概念に書き加えられて、政治・宗教・経済・パワーバランスや排斥・弾圧・戦争などに用いられている。
用いられているというよりも、“常識”というまったくの無意識によって、「多くの人の賛同、権力の大義、暴力の根拠」になっている。
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by greenwich-village | 2015-01-16 11:09 | グリニッチ・ヴィレッジ

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