君は、今まで生きてきて手に入れたすべてを失う。

君は、今まで生きてきて手に入れたすべてを失う。


もっとお金はほしいだろうし、やたらと知り合いを増やして顔役にもなりたい、そこそこ有名になってチヤホヤされるのも悪くないし、情報通で時代流行にも敏感、社会のためか褒められもしたければ評価もほしい、悦に入る、生まれた後に身に着けた程度のたわいもない諸々。

...世界各国にはそれぞれ限られた歌姫がいるけれど、たとえばエリス・レジーナを聴くと、あぁこの人はひたすら唄うために生まれてきたんだなぁと理解する。
この人にとっては何よりもまして歌うことが先行する。この人が生まれてきたんじゃなくて、最初に歌が生まれてその後にこの人が産声を上げたみたいだ。数少ないそういう“業”の持ち主たちを、各国の民衆は歌姫と呼ぶ。

生まれてその後に身に着けたすべては、歌ってその後をオマケ程度でついてくる。オマケをはぎ取ってしまうと、丸焼けのクリスマスチキンのように誰もが鳥肌丸出し。その肉は旨いのか旨くないのか。飾り付けが26日には仕舞われてしまうように、生まれた後に身に着けた諸々の装飾品はその程度のもの。

裸では外を歩けないから、常識的一般的平均的な体裁を整えてオマケを身にまとっているけれど、オマケは「何かの役に立ったかもしれない気になる」くらいのもので、それで万事融通が利く世の中だから幸せこの上ない。
オマケに囲まれて“我が人生に悔いなし”と謳歌する。

動物にはない特性の一つで、人間には“生業”という特徴があるが、ほとんど多くの場合、人間社会での生きがかり上、成り行きで形成されただけの装飾であって、死んだ後でも持っていけるような代物ではない。

慢性病理として、何のために生まれ来て、何のために生きて死んでいったのか、という前後は完全に欠落していて、オマケである中間部分だけが生態化している。前後のないこの社会生態は手も足もなく胴体だけの姿だ。掴むことも歩くこともできない。胴体部だけが、ただひたすら肥大する。

この文脈でいう“業”や“衝動”というものは、人の本質を司るものだ。


明日、社長は首を括るだろうし、社員は解雇、家族は路頭に迷う、親しげな友達顔だった連中は蜘蛛の子を散らすように去っていき、ガランとした部屋、寄り添うものは誰も居ない、加齢とともに世の中の流行り廃りが何のことやら一向に分からなくなり、テンポの遅い老成動作のせいで煙たがられ、ただ人間であるだけの評価以外はなく、自惚れる気力も薄れる。


何の生業か、などは、相対的に価値のつかないただのオマケだ。言い換えれば、そうである限り、生まれて死ぬまでの人生そのものが、どこかに失くしても気にならない単なる陳腐なオマケにすぎない。

「業」や「衝動」が動物生態の根本本質だから、それを取り戻すだけで人生の前後は復旧回復し、手足が生え、掴むことも歩くこともできるようになり、胴体部分である中間部はしなやかでたくましいものになる。


しなやかにたくましく唄う。




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by greenwich-village | 2014-12-23 11:14 | グリニッチ・ヴィレッジ

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