知のモラル/2008年6月27日アーカイブ

-<知のモラル>抜粋-

「二十世紀の歴史は、部分的に相対的な安定性が垣間見られたとしても、全体としては血塗られた歴史でした。
戦争、抗争、制圧、飢餓、暴力、貧困、差別、排除、無理解、ヴァン・ゴッホの言葉ではありませんが、人間の悲惨と悲しみはけして終わらない。
人間理解のために費やされた膨大な努力もこうした現実の前ではまったく無力であるように思えてきます。
知は生き生きとした人間的な現実を作り上げていく力であるどころか、むしろ絶望的な無力をまざまざと露呈させているかのようなのです。
一方に過剰な物質的な力、他方に人間に対する絶望的な無力-この二つの極のあいだで、現代の知は、そのありうべき本来の力を失いかかっているように思われます。
そして、それ故にこそ、この時代に知を希望へ結びつけることが途方もない困難に思われるのです。

(中略)

たとえ時には絶望的なまでに困難に見えようとも、われわれがむしろ知をわれわれのモラルの条件のひとつに考えようとする理由があります。
すなわち、知は、おそらく最終的には、それが理解しようとし、理解したとするその「なにか」とともに生きることを可能にしてくれるべきものです。
その「なにか」が物質的なものであれ、人間的なものであれ、知ることが理解や了解につながり、その理解や了解がともに存在しともに生きること、いや、さらにはともによりよく生きることにつながる-それが、知のミニマルのモラルであり、ミニマルの希望であるはずなのです。

(中略)

けっして単なるモノとしての人体には還元できない一個の特異な人間存在としての他者、それは、知の能動性や操作性を頼り、それを受け入れようとしている受け身の存在としての他者であり、しかも自らの身体が問題になっているにもかかわらず、それに対して知のゲームを行うことができない無知の他者、あるいは非知の他者というわけです。
知の権能をもっていません。
知の言語を使用することのできない弱者です。
しかし、明らかなことですが、知が責任を負っているのは、あくまでもこの他者に対してであって、けっしてモノとしての人体に対してではありません。
モラルが問われるのは、つねに他者に対してなのです。
まったくあたりまえのことなのですが、モラルとは他者に対するものなのです。

(中略)

この他者は、それが誰であれ、その特異性と現実性において、いや、人間という存在において、圧倒的に、比べることができないほどはるかに尊い。
知がけっして把握することができないほど、複雑で、豊かで、深遠なのです。
そして、知が応えなければならないのは、言い換えれば、知が責任があるのは、あくまでもこの他者に対してなのです。
おそらく、知のモラルの問題は、このことをはっきりさせることに尽きるのではないでしょうか。

つまり、行為としての知の責任は、なによりも他者がよりよく生きることに対して向けられなければならない。
他者とは生です。
その生がよりよく生きるためにこそ、知は貢献しなければならないということです。

(中略)

あくまでも知という原則にこだわる限りにおいてですが-というのも、こうした極限状態においては、知という原則を捨てて、たとえば「愛」というようなまったく異なる原則へと移行してしまうことも可能だからです-、われわれは、それでもなお言葉の力、コミュニケーションの力の内に立ち止ろうとするべきだと思います。
というのも、われわれは、まさに言葉をもたない者に言葉を貸し与えることができるのが知だと考えるからです。

(中略)

相手をあくまでもコミュニケーションの可能性を備えた他者として扱い、他者として理解しようとすること。
自分のコントロールを超えた独自の世界をもっている人間として「ともに生きようとする」こと-そこにモラルの方向性があると思います。
モラルとは、「ともにある」ことへと開かれた他者の存在を認め尊重すること以外のなにものでもないのですから。
そして、知という観点からは、「よりよく生きる」ということは、とりもなおさず、コミュニケーションを通じて相互に了解しようと努めながら生きることであり、その開かれたあり方こそがまた、人間の尊厳でもあるからです。

(中略)

詩人リルケがうたったように、動物とは異なる人間の人間らしいあり方は、なによりも世界に対するその「開け」にあります。
人間は直立し、世界と向かい合って存在し、そうして世界を問い、世界を知るための言語を所持しました。
言語を通じて、人間は世界へと開かれている。
そして、知とは、まさにその言語の力を通じてより一層深く、世界を理解し、世界へと開けれていく努力にほかならないともいえるのです。
そこに、知が人間の尊厳のひとつの現われとなる理由があります。

(中略)

人間の知の尊厳、知ることとは、そのように世界へと開かれて、世界と自己とをともに理解しようとすることにほかありません。
しかし、同時に、われわれは「知っている」だけでは十分ではないと言わなければなりません。
世界に対する知の尊厳は、かならずしもそれだけではほんとうの人間的な尊厳を保証しない。
それどころか、しばしば見受けられることですが、知の尊厳がそのまま単なる権威的な尊大さにつながることもあるのです。
とするならば、われわれとしては、あらためて知は他者の尊厳を認め、理解し、あるいは他者にその尊厳を与え返すことによってはじめてみずからの尊厳を得ることができるのだと強調しておかなければならないと思います。
他者の世界がより「開け」られ、広がること。
つまり、みずからをよりよく知り、了解すること。
そしてより多くの可能性に対して開かれること。
それをあるいは、「自由」という言葉で呼んでもいいかもしれませんが、そのような他者の「自由」に貢献することが知の使命であるはずなのです。

(中略)

現実の決定が迫られる現場においては、時間はつねに切迫しています。
そして、それこそがおそらく、モラルの問題のもっとも根本的な条件なのです。
もしそれぞれの人間に時間が無限にあるのだったら、そこではモラルの問題は提起されないでしょう。
時間が不足しているところ、その切迫のもとで決定しなければならないからこそ、モラルの問いが提起されるわけですが、しかし同時に、それだからこそ、モラルはそのはじめの条件からして危うくなっているわけです。
だが、それこそがモラルなのです。
すなわち、もしわれわれがみずからの行為を完全に倫理的に正しいと自認するようなら、それはまったくモラルではありません。
みずからの行為を正当化することがモラルの問題ではないのです。
モラルはイデオロギーではない。
自分に対して倫理的に正しいという判断をあらかじめもってしまっていることほど、モラルとして醜いことはありません。
そうではなくて、みずからの行為が正当であるかどうかの保証がなく、確固とした判断基準もないところで、しかしみずからを判断基準にするのではなく、あくまでも他者を基準にしてみずからの行為を考えようとすることこそがモラルです。

他者に時間を与えようとすること、
他者にコミュニケーションのための言葉を与えようとすること、
他者にその未来への「開け」を与えようとすること、
つまり、他者に希望を与えようとすること、
-そのような気遣いこそがモラルなのだと思います。

(中略)

われわれは希望を語らなければならない、知は希望を語らなければならない。
人間にとってのより広い理解の可能性、より開かれた生の可能性について語らなければなりません。

現実のさまざまな切迫を前にして-その現実に抗して-。」


(「知のモラル」知のモラルを問うために/小林康夫)より
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by greenwich-village | 2013-05-13 03:38 | グリニッチ・ヴィレッジ

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