「音楽を聴こう」としないほうがいい

「音楽を聴こう」としないほうがいい。

音楽を聴こうとすると、音楽を聴こうとするメンタルが、聴こうとする音楽を聴く前から型にはめてしまう。
「かくありなん」と、聴く前から型にはめた音楽を聴いて、あぁやっぱりね、と聴いてしまう。
それは音楽を聴いているのではなくて、自ら型にはめたメンタルを投影して重ね塗りしている行為になる。
音楽は聴かないで、音楽が流れているところに身を置いている、というスタンスがいい。

川のせせらぎや海鳴り波の音、雨音や風の音、動物の鳴き声や日常の生活音を聴くまでもなく耳にして、こんなものは音じゃない、などとわざわざ言う人はまずいない。
それらの音はただあって、そういう場に自分が居合わせているということ。
音楽が音であるならば、音楽もまた、同じことが言える。音楽が流れている場に身を置いているということ。
聴こうとすると無理が生じる。
日常の雑音が常に聴覚に届いてはいてもまるで聴こえないでいられるように、自らが型にはめた好んだ部分しか聴こうとしない。
逆に言えば、聴く前から型にはめているのだから、聴かなくてもすでに聴こえていて、わざわざ聴く必要はない。

これは音楽じゃない、なんだか意味が分からない、難しい、というのも型にはめているから生じる感覚で、音楽に意味などないのだから難しくなることはない。
意味があるものが、理解しなければならない、理解できない、だから難しい、という展開になる。
意味がないものに難しいということは、論理的にありえない。

理解できない、難解というものは、とてつもなく意味があるものか、それとも受け手が型にはめているかのどちらかになる。

音楽は、ただそこに居合わせて身を任せてしまえば、それだけのこと。
人は誰でも、あらかじめ混沌や不条理や無秩序や衝動を内包しているが、ちょうど鏡のように身を置けば、なんてことはない音楽という音の流れがあるだけだ。

音楽には意味がない。
聴き手・受け取り手個人各々に意味があって、意味を見出して、意味を創造して、イマジネーションを膨らませ、幻影幻視をし、音楽を楽しんでいるのだ。
音楽はそういうインタラクティヴな娯楽なのだ。

ミュージシャン・音楽家が自ら意味を持たせてしまうと、音楽は聴き手受け取り手に届く前から、“意味”という型にはまってしまう。

本来的に「意味」を持たない音楽というものにあるのは、感覚だ。

赤ん坊がなぜ泣いているのか、お腹がすいているのか、オムツなのか、どこかが痛いのか、そういうものを瞬時に聴き分けられる母親たちのそれと同じものだ。

感覚を発達させたところに、音楽はある。
聴こうとすると、自分がはめた型・知識や経験だけが立ちあらわれて、まったく何も聴こえなくなってしまう。

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by greenwich-village | 2012-04-22 02:12 | グリニッチ・ヴィレッジ | Comments(0)

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