年の瀬のインドカリーセットとインド音楽/可哀そうな神様

冷蔵庫に「手のばしナンとインドカリーセット」があったので、ポタージュスープとパリパリサラダとヨーグルトドリンクで、今夜のご飯はカレーセットにすることにしました。
本格的インドカリーを食べるときは、やはり本格的インド音楽がぴったりなわけで、ヴィラヤト・ハーン。

一口にインド音楽といっても様々で古典からカレー屋さんのBGMのムービー音楽など、古典も北インドと南インドで異なってきますし、音楽に使われる楽器も様々、歌唱法もこれまた異なっていて、ヴァラエティ豊か。

民謡や世界音楽のひとつではなくて、極めて優れた洗練されたクラッシック・ミュージック。
古典は総じて神様への捧げものですから、どれもゆったりとして寛いだ気分になれます。まさに悠久の流れガンジス河のほとりでといった響きですね。

何も足さない、何も引かない。演者と楽器から紡がれる音楽を、何かどこか、その向こう側へただ響かせている。向こう側には世知辛い“時間”の感覚・概念・常識などないですから、曲の長短はない。ただ始まりただ終わる。始まりと終わりだけしかない。始まりと終わりの中に、音楽が漂い響いている。

音楽として数学的に分析すれば、音階の動き・多リズムの変化など、構成や特徴やテクニックは分かりますがただそれだけで、音楽という力を持った響きとはなんら無関係なもの。

意識なく生まれ、意識なく死んでいく、という人の生涯のような音楽ですね。始まりと終わりの中で、私たちは世界権力者も下々も皆、一喜一憂ジタバタしている。それを分析したところで結局何も分からない。
だいいち、始まりと終わりのその真っただ中にいる者が、自分の生涯を鳥瞰的・客観的に分かるわけがない。

メロディーとリズムとその響きが線状に非固定・非構築的に漂っている。
インド古典音楽を耳にすると、少しだけ思慮深くなったような気持ちになります。

西洋価値やジャズやロックが取り込み、ことさら神秘性を強調して宣伝したせいか、怪しげなイメージばかり先行しがちですが、その響きは、「人智が及ぶような神秘性などどこにもない」と物語っているように聴こえます。
「トイレの神様」どころか、インドにはそこらじゅうにいろんな神様が宿っていますからね。だから、人間時間と神様時間が生活の中に混在している。
いつのまにか一神教の、非ガリレオで自己中心な西洋人にはそれが理解できなかったから、神秘性を持ち出してきたのかもしれませんね。
日本人が持っている一般的なインドイメージも、その西洋価値の宣伝・洗脳によるものでしょう。

日本も昔々は、いろんなところにいろんな神様がいて、いろんな時間が流れていた。
ちゃんと「貧乏の神様」だっていたんですからね。

年末くらいたまには、貧乏の神様にお供え物をして祈りましょう、年末ジャンボ宝くじが当たりますようにと。

同じ神様でも、貧乏の神様ばかり邪険にされてイジメかれて疎ましがられている昨今。人間様の都合とはいえ、大きなお社には小銭パチパチと手を合わせてはみるものの、心根、実のところは、人間様のほうが神様よりもずっと偉いんですな。

恐るべし、人間様。

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ウスタッド・ヴィラヤト・ハーン


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by greenwich-village | 2011-12-18 09:45 | グリニッチ・ヴィレッジ | Comments(0)

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