山椒魚は悲しんだ。頭が出口につかえて外に出ることができなかった。

大げさに言わずとも、死生観というか人生観というか宗教観というか、
今のような状況になると、普段あまり考えないような事柄も思考の中を行き来しますね。

なにより事態の収束を願って、そして日々の実生活に戻って過ごすうちに、
事と次第の責任がどこかに追いやられてしまっては、復旧でも復興でも実状は後退してしまう。

怒りや不安や悲しみや慟哭は決して良いエネルギーでも優れたパワーでもないけれど、数回の土下座行脚をして清水社長が交代、退いても、彼は大役から御役御免でも、現状は何も変わらない。

誰を責めたところで、誰も責任は取りはしないし、責任の取りようもないほど巨大な事柄だけれど、誰かを責めたくなる気持ちも分かる。

原発反対ばかりではなくて、これはマズい、良くない、と思うことに対する反対姿勢は、事が起きてからよりも、何も起きていない平時の時から取り上げて、行って、改正されるべきだから、我々国民にとって、今回の事柄が起きて身の危険を感じても仕方ない事実、も突きつけられている。

3月10日まで、反原発・放射能の危険性に対する意識は決して高くなかったろう?
「反原発」といって、いったいどれだけの人数がデモや集会に集まっただろうか?
いったい誰が、国会議員や官僚に詰め寄り懇願し、「原発を止めてくれ」と叫んだだろうか?


「あなたはずいぶんウブな社会派なんですねぇ」と笑われる。


怒りや不安や悲しみや慟哭は、
楽しみや安心や優遇や歓喜と取引した代価としてもたらされる。
便利は不便利の、自由は不自由の、繁栄は貧困の親たちで、
子供たちに残されてしまうのは、親たちの一過性の享楽のために作られた負債だ。

「国とはつまり、そこに暮らす人々の意識の総和である」というとおり、
意識の総和が、最終的な現状をもたらした。


子供たちは、平時、笑う、そして泣く。
本当に何か恐ろしい時、泣きもせずただ押し黙る。
子供たちの泣き笑いは、親に対する健康的な甘えで、それが機能不全になる。

避難時の非常事態下から、潜在的に何だか分からないがなんとなくおかしいのかなと感じる今も、子供たちは平時の泣き笑いが少ない。
それでも時々、彼らがつまらないことで子供らしく泣いたりスネたりする親に甘える姿を見ると、安堵する。
それでもまだ平時の日常とは言えないが、子供たちが普段に泣いたり笑ったりできる日常が心から愛おしい。


あくまで人災である事故の責任の所在と、未だ今後もあり続ける怪物に関しての意識は忘れてはならないことだが、怒りや不安や悲しみや慟哭は、精神を消耗させるから留めるべきものではない。

つまり今後、ことさら社会派ではなくとも、「ほぼ恒久的に、日常的に意識的な生活人」が増えるかもしれない。
増えなければ、経済優遇だけの復興復旧で、国の負債額と同等にいづれ後退していくだけだろう。
歴史上、そういうことの繰り返しが、この国の民衆の総和だった。


何代前から、いつから先祖といえるか知らないが、多くの民衆に先祖代々という地所はない。
大切なのは土地ではなくて、人生の時間を過ごしてきた個人的な思い出だ。

世の中のほとんどのものが、つまりは経済で解決できる。便利も不便利も、不安も安堵も、補償も復興も、その金額次第で、お金で解決できる。たとえば、一人頭3億円貰えて文句を言う人は稀だろう。
一連の原発は建設から事故まで、関係者も住民も、経済で始まり、経済で終わる。


ただ、経済だけでは賄えないものは、
平時の日常の、子供たちの普段の泣き笑う甘える姿と、人生の時間の思い出だ。

それを失うような過ちを犯したものが、個々人にも社会通念にも、民衆の意識の総和として、われわれに代償を求めている。



<山椒魚は悲しんだ。

彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。

今はもはや、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かった。

そして、ほの暗かった。

強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなったが、彼を狼狽させ且つ悲しませるには十分であったのだ。

「何たる失策であることか!」>

                                      井伏鱒二




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by greenwich-village | 2011-05-21 12:42 | グリニッチ・ヴィレッジ

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